ふと背後に人影を感じて振り返る。同時に、真っ白な猫がポンッと尻尾を振った。
「まぁ 天使ちゃん、こんな朝早くからお出かけ?」
ツバサ=涼木聖翼人は、その人物を意外だと思った。母は、平日であろうが休日であろうが、こんなに朝早くには起きてこない。
「お母さん」
立ち上がり、つま先でトントンと玄関の床を叩きながら靴を履く。
寝巻きに絹地のローブを羽織った婦人は、猫の背を撫でる手を止めて眉を寄せた。
「"お母さん"はやめてよ。"ママ"でしょ?」
その言葉に聖翼人は唇に小さく力を入れる。小さい頃は、何の疑いもなくママと呼んでいた。
「またあの施設へ行くの?」
「うん」
「もういい加減、辞めてもいいんじゃない?」
もういい加減―――
聖翼人は無言で背を向け玄関の扉を押した。
「あ、天使ちゃんっ」
背後の言葉に耳を貸すことなく、聖翼人は玄関を後にし、表門へ向かう。左右に広がる庭は、明け方に降った雨のために濡れている。朝日を浴びてキラキラと光るのが、綺麗だ。
「あら、お嬢様」
表門を掃いていた使用人の女性が顔をあげた。
「お出かけでございますか?」
「うん」
「お昼にはお戻りになります?」
「戻らない」
彼女は何も悪い事は言っていない。だが、直前の母の言葉が胸にシコリとなって残り、聖翼人はつい冷たい言葉で返事する。
そんな聖翼人の態度を察しているのか、もしくはまったく気付いていないのか。女性は穏やかな顔で頭をさげた。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
悪い事したな。
こんな小娘に生意気な態度を取られても文句一つ言わない相手に罪悪を感じ、聖翼人はふと足を止める。
「夕飯には間に合うように帰るから」
その言葉に女性はチラリと笑みを見せ、それから再び頭をさげる。聖翼人はそのまま門を出た。
朝日が眩しい。昨日は午後からずっと降ったり止んだりの天気だったが、今日はなんとか晴れそうだ。
右手を額にかざす。
もういい加減―――
母の言葉。
もういい加減、施設へ通うのは辞めてもよいのではないか。もう十分慈善は尽くしたのだから、辞めてもよいのではないか。慈善を尽くしていると周囲は理解しているのだから、もういい加減辞めてもよいのではないか。
聖翼人=ツバサは大股で歩き出す。
母にとって、ツバサの行動は所詮はそのような理由だ。孤児院のような恵まれない人々のために行動する事は、自分のお株をあげるのには好材料だ。延いては涼木家の好印象にも繋がる。だから母は、娘の行動を厳しく咎めたりはしない。
ツバサはそのような理由で行動しているのだろうと母は思い込んでいるし、きっと兄の行動をもそう捉えていたのだろう。
自分の為に、人を助ける。世の中とは、みなそのような感情で動いているのだと信じて疑わない。
母らしいと思う。
空を見上げる。
あぁ、こんないい天気なのに、なんだか朝から辛気臭くなるな。
気分を変えようと、おもいっきり伸びをする。そのままポンッと右手を頭に乗せると、カチッと乾いた音がした。
髪留めに指が触れた。
「はぁ」
思わずため息を漏らしてしまう。
黄色いペンギンのような、寸胴のキリンのようなマスコットの髪留め。同じマスコットの根付を、彼氏の蔦康煕=コウは制服のネクタイピンに付けている。
「コウのバカァァァァァァッ!」
金曜日の帰りに喧嘩別れして以来、それっきり。
土曜日の昨日は顔も合わせなかった。もともとクラスは違うのだから、会わずに済まそうとすればできてしまう。
二人が言い争った現場を誰かが目撃でもしていたのだろうか? 登校するなりちょっとした騒ぎにもなった。
「天使様、蔦くんと喧嘩をなさったのですってね」
などとわざわざ寄ってくる生徒もいて、そんな同級生にうんざりもしてしまって、午前の授業が終了すると同時にさっさと下校してしまった。
ホントは、私が悪いんだ。
それはわかっている。だから自分の方から謝らなければならない。だがツバサは、結局行動できないでいる。
意地を張っているつもりはないのだが―――
脳裏に浮かぶ、子犬のような瞳。
私って、ホントにサイアク。
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